(5) 胸の鼓動

登場する人物、団体名は仮名です
同期生、後輩、嫌な先輩の敬称は略してあります

クラシカル・ガス ポール・モーリア

「玄関も閉まってます」
 その声を聞いた途端全身の力が一気に抜けた。
「ここには居ないな」
 足音が隣りへ回り、木戸を開く音がして明かりが漏れてきた。隣りとの低い仕切り塀の上に頭の先が見え隠れしている。
 背伸びしてこちらを覗かれたら確実に見つかってしまう。鼻で息をする音さえも聞かれてしまいそうで、口を開いてゆっくりと呼吸した。しかし、今度は開いた口から心臓の音がドキドキと外に響いて聞こえる気がして、慌てて口を閉じる。そのまま息を止めた。
 突然ガラス戸を開く音がした。
 ビクッとした相原が、オレの肩を掴んでいる指先に痛いほどの力を込める。
「中には誰も居ません」
 声は隣りの縁側から聞こえた。玄関から中に入ったのだ。こっちの玄関に鍵が掛かっていていた事を神様に感謝した。気がつくと、息が掛かるほど近くに相原の顔がある。
「ここで最後ですから社宅にはいませんね。取りあえず私は、男子寮へ報告に行きます」
 相原の口が囁くように『た・だ・の・さ・ん・だ』と動く。その息が甘く匂う。
「じゃあ、こっちは裏門へ戻って待機していようか」
 懐中電灯の明かりと共に話し声と足音が遠のいていく。
 ホッと息を吐いて二人ともペッタリとその場に座り込んだ。まだ誰か近くに残っているかもしれないので、すぐには声を出せない。

 しばらく経ってから相原を手で制し、そっと立ち上がって裏木戸を開けた。
 外には誰もいない。社宅の角まで行って辺りを窺うが、見える範囲に人の姿はなかった。
 裏木戸の陰から恐る恐る相原が顔を出す。
「行っちゃった?」
「うん。もう誰もいないから出てきて大丈夫だぞ」
「あー怖かったぁ。まだ心臓がドキドキしてる」
「今の内に早くここを離れよう」急ぎ足で空き地に向かう。
「誰かを探してたみたいだよね」
 小走りで後をつい来る相原が尋る。
「うん、でもあれじゃあ見つからないだろう」
「どうして?」
 隠れている相手を探すのに、あんなに大声や物音を立てたら探している場所を教えているのと同じだ。音のしない方に逃げられてしまう。それに、鍵が掛かっている所はパスしていたから、オレ達のように中から鍵をかけていればそこも見逃してしまう。現にオレ達は見つからなかった。
「じゃあ、まだどこかに隠れているかも知れないっていうの?」
「うん、ひょっとしたら」
 裏木戸に鍵が掛かっていない社宅は全部で5軒。オレ達が隠れた西11と、その隣の西12にはいなかったから、この先にある西38、西61、西65のどれかに鍵が掛かっていたら、
「そこにいる」
 誰かが息を潜めて隠れているかも知れないと思うと、静まりかえっている社宅が一層不気味に見えた。
「あーん、もう。怖いから変なこと言わないでよ」
 いきなり両手でオレの腕にしがみついてくる。
「おい、もう少し離れてくれよ、これじゃ歩けないって」
「やだ。それより多田野さんが戻ってくる前に早く行きましょう」と、急かせた。
 裏門まで相原を送ってくると、待機している安全パトロール隊の中に、ウチの主任が居た。
 ゲッ! そうか主任も安全パトロールのメンバーなのをすっかり忘れていた。
 女の子と一緒なので驚いた顔をしている。何か言われる前にさっさと帰った方が良さ気だ。「今晩は」と頭を下げ、急いで前を通り過ぎようとしたら「おい!」と呼び止められた。
「こんだけ可愛い彼女やけ、ちいとでも長く一緒にいたいのはよう分かるけんど、次からはまちっと早うに帰したれや、門限ギリギリやぞ」 
 女子寮の門限は夜9時。遅れると同室の全員が1週間の外出禁止になる。
 そんな事を言われても、相原は彼女じゃないし、それどころか彼氏持ちなので、次なんてないんだよ主任、と説明するのも面倒なので「はい、今度から気をつけます」
 そう答えて相原を見ると、「じゃあまた今度ね」と、悪戯っぽい笑顔を残して女子寮への地下道へ消えていった。
 実はこの時、門限の9時をほんの少し過ぎていたのだが、主任の門限ギリギリという言葉を聞いて、守衛は何も言わずに相原を通したのだ。
 何があったのか訊こうと思ったが、まだ何か言いたそうな主任の顔を見て、大急ぎで裏門から離れた。

 男子寮まで戻ってくると、いつもは暗い玄関に煌々と灯がついており、沢山の寮生と一緒に多田野さんの姿も見えた。自治会の役員も揃っている。
「あ、帰ってきた」
 同期生の鳴沢が手を振る。その横で高木さんも心配げにオレを見ている。
「どこのポストまで行ってたんや、ちょっとも帰って来うへんから心配したぞ」
「何か有ったんですか?」
「有ったもクソも無いわい、大有りじゃ。女子寮の女が行方不明なんや、脱走したんや」

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