(0) 男子寮と女子寮

登場する人物、団体名は仮名です
同期生、後輩、嫌な先輩の敬称は略してあります

親父にさよなら 森本レオ (1970)

「あ、先輩! 先輩まだ彼女いなかったっすよね。だったらいい子が居るんすけど付き合ってみませんか? その子見かけによらずオッパイ大きいし、直ぐにさせてくれますから絶対イイっすよ」
 出勤前、男子寮の玄関先で朝から鬱陶しい奴に会ってしまった。
 コイツは二年後輩の滑川厚。同県出身というだけでやたらと馴れ馴れしい上に、そこそこに顔がいいので自分はモテる男だと思い込んでいる。「オレが誘って落ちなかった女子寮の女は一人もいない」というのがコイツの自慢だ。尤も、「滑川は、すぐに落ちるようなどうでもいい女しか誘わない」というのが男子寮内での大方の意見だ。早く逃げ出さないと、そのどうでもいい自慢話を延々聞かされる羽目になる。

 1970年代。愛知県の、とある紡績工場の男子寮に住んでいた。 ※参照 1970年代(Wikipedia) 1970年代(Google 画像検索)
 大企業の紡績工場なので、塀を挟んだ隣に建っている女子寮には1000人以上の女の子がいたのに対し、男子寮の男は期間雇用者も含めて、その10分の1以下の85人しかいない。だから男子寮の男は大モテ、女の子を相手にやりたい放題、と外部からは見えるらしい。
 しかし現実はそう甘くはない。大モテでやりたい放題なのはごく一部のいい男だけ、その他大勢は見向きもされない。その上、女子寮では新卒の入寮者全員に毎年「男女交際の手引き」という小冊子を配布していた。そこには「あなたに言い寄ってくる男がどんなに口でいい事を言っても、それはすべてあなたの身体が目的で、一度身体を許したら、男は際限なく身体を求めてくる」と、男は皆オオカミだと断定し「もし妊娠したら、男は直ぐに逃げ出して一切責任を取らない」と、多くの実例を上げてすべての男が狡くて卑怯な生き物であるかのように書かれている。男のオレが読んでも、男に生まれて申し訳ない気がしてくるような内容だから、女子寮の女の子からそんな目で見られている男子寮の男は、益益見向きもされなくなってしまう訳だ。
 しかし、モテるモテないは別にして、新入社員に限って言えば、男子寮では規則で一年間は男女交際が禁止されていたから、女の子と遊ぶなんて最初から出来ない話なのだ。この男子寮の規則は今では信じられないような内容で、同じく一年間は長髪禁止つまり坊主頭。外出時の私服着用も禁止。どう考えてもおかしいが社会人なのに学ランでなければ寮の外へ出られないのだ。気の毒な事に同期入社の大竹は七三に分けた髪と似合わないスーツ姿で入寮したその日のうちに坊主頭にさせられた。だから何かの間違いで万が一女の子とデート出来たとしても、坊主頭に学ランではサマにならない。
 そして、この男子寮の規則の中で最悪なのが「先輩の命令には絶対服従」だ。先輩の言う事に逆らって殴られても、男子寮自治会では逆らった方が悪いのだと鉄拳制裁を容認していた。以前、先輩に千円と書いた紙を手渡され、それで買い物に行かされた後輩が、仕方なく自腹で買い物して帰ってきたら、お釣を渡せと言われた嘘のような本当の話があった。24時間営業のコンビニがある今と違い、夜中に買い物(主に酒)に行かされると、殆どの店が閉まっている。だから閉店後でも裏口から入れる店のリストは、新入社員が最初に覚えなくてはいけない必須事項だった。そんな新入社員の時に、無茶も言わず親身になって面倒を見てくれたのは、高木さんや川田さん、後で同室になる本間さんといった極一部の人達だけだった。だから同期で顔を合わせる度にオレ達も後輩が出来たら高木さんたちを見習って無茶な事は言わないようにしよう、とそんな話をしていた。ところが翌年、新入社員が一人も入って来なかった。折しも時は高度経済成長期のまっただ中。中・高卒の新卒者は金の卵と崇め奉られ、小さな町工場でさえ福利厚生施設を充実させて新卒者確保に躍起になっていた時代だから、例え大企業といえど、こんな寮の規則が有る会社の社員募集には誰も応じない。その翌年も採用ゼロになりそうで、慌てた会社と労組の申し入れで、この規則は撤廃された。これまで男子寮を監督指導してきた古くさい価値観の会社役員達が徐々に定年退社していき、代わって個人主義を尊重する若い役員が台頭してきた事も追い風になった。おかげで、新卒者も確保出来て、馬鹿な思いをしたのはオレ達が最後になった。
 今では新入社員も髪は伸ばし放題。どんな服装で外出しても自由だし、滑川のように入社した年から女の子漁りをしても自治会室に呼びだされて鉄拳制裁を受けることもなくなった……表向きには。

「あのなー、オレは女なら誰でいいっていうお前とは違うんだよ」鼻っからお前が紹介する相手とは付き合う気もないけど。
「なーに言っちゃってるんっすかぁ。男なら誰だって女とヤリタイに決まってるじゃないっすか。そーんなやせ我慢してるからいつまで経っても彼女出来ないんっすよ。女なんてやった後で気に入ったら付き合えばいいんっすよ。先輩は女の子と縁がない職場に居るんっすから、俺の親切を無にしないで下さいよ」
 なーにが親切だ、お前の魂胆は見え見えだよ。直ぐにさせてくれるは、させてくれたの間違いだろう「問うに落ちず、語るに落ちる」とはこの事だ。それにな、お前に言っても分かるまいが、やせ我慢は男の美学なんだよ。
 とは言っても、癪な事にコイツが言う通りでオレの職場じゃ女の子と知り合う機会が少ないのも事実だ。
 他の男子寮生が所属している職場は梳毛、紡績、仕上げ、といった生産部門で、各部門には百人以上の女の子がいる。それに対しオレが所属する工作科は、機械の部品製作や、板金、溶接、建物の修繕から植木の手入れ、果てはドブ浚いと、社内の保全業務を受け持つ言わば町工場と工務店と植木屋が一緒になったような所なので、科内にいるのは職人気質の気難しいオヤジばかり。女性はと言えばオバサン事務員と今年入社した新卒の女の子の二人しか居ない。だから入社当初は、工作科配属なった己が身の不運を嘆いた。が、この後よもや工作科だったことを神様に感謝する出来事が起きるとは、この時は思いもしない。
「それじゃあ先輩、その気になったらいつでも言って下さいね。お先に失礼しまっす」
 自慢話が始まる前に逃げ出そうと身構えていると、自分の方から逃げるように立ち去ったのでアレ? と思ったら、廊下の向こうから同期の中原がやってくるのが見えた。
 中原は顔が良くて性格もいい、オマケに背が高くてスポーツ万能と「世の中は不公平」を体現しているヤツで、実際に男子寮で一番モテるのはこの男だから、勝手にライバル視している滑川にとっては、一番顔を合わせたくない相手だ。
「今の滑川じゃないか? どうせまた、付き合う気もないくせに手ぇ出した女を押し付けてたんだろう。しょうがねえヤツだな。お前もいつまでも独り身だからあんな奴が言い寄ってくるんだよ。付き合いたい女の子とかいないのか」
「いない。いいなーと思う女の子はいるけど彼氏持ちだから付き合えない。工作科じゃあ他の女の子を探すことも無理だしな」
 ここで、その女の子は誰だと訊かないのが中原のイイ所だ。
「だけど、お前来月から行事委員会の役員やるんだろう? なら女子寮に行く機会が増えて環境良くなるじゃんかよ。女の子見つけるチャンスも増えるだろう」
「それがさ、最近気がついたんだよなー」
「?」
「モテる奴は環境悪くてもモテるけど、モテない奴はどんだけ環境よくてもモテないんだよ。だから世の中、金は持ってる奴の所に、女の子はモテる奴の所に集るようになっているのさ」
 それを聞いた中原は、お前上手いこと言うなあと、爽やかに笑う。
「大丈夫だよ、お前案外イイ男だから充分モテる奴の範疇だぞ」
 ポンと肩を叩いて行く中原。案外イイ男……か。お前に言われると慰めにしか聞こえないけど。
 モテる男の〜赤いトラクタ〜 それがお前〜だぜ〜♪ ささ、お仕事お仕事。

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